荻野吟子とは
闘病の末、目指した医師への道
「人その友の為に己の命をすつる 之より大いなる愛はなし」
(ヨハネ伝第15章13節)
日本における最初の女性医師。嘉永4年、埼玉の名所の五女として生まれ、幼いころから聡明で、勉強好きであった。
16歳で結婚するが、夫からうつされた性病(淋病)にかかり、大学東校(後の東京大学医学部)の付属病院に入院。生死をさまようほどの病状だった。入院中、女医の必要性を痛感し、自分自身が女医となる決意をする。 離婚後故郷に戻り、本格的に学問を始める。
妻沼村 両宜塾に入門し、松本万年の教えを受けた後、22歳で上京し、井上頼圀の私塾神習舎に入る。
その後、初めて女性の教育養成を目的とした女子高等師範学校を経て、私立医学校好寿院に学ぶ。 医術開業試験の願書を幾度となく提出するも、ことごとく却下されるが、決して諦めず、明治18年(1885)、34歳の時、医術開業試験に合格。女性として初めて医籍に登録された。同年、荻野医院を開業。この頃、キリスト教婦人矯風会に参加。
明治24年(1891)の岐阜県 濃尾大地震では、女子の孤児たちを保護するために立ち上がった石井亮一(日本の知的障害児教育の創始者)に賛同し、荻野医院を子供たちのために開放、自らも孤児たちの世話を行った。
明治23年(1890)、牧師 志方之善と結婚し、明治27年(1894)、北海道に渡り開業。夫の死後帰京し、明治41年(1908)、東京で医院を開いた。
参考サイト
- 嘉永4年(1851年)
- 俵瀬(たわらせ)村(現在の埼玉県熊谷市俵瀬)に、名主の荻野綾三郎、かよの五女として生まれる
- 慶応3年(1867年/17歳)
- 上川上村(現在の熊谷市上川上)の名主の長男・稲村貫一郎と結婚
- 明治3年(1870年/19歳)
- 夫からうつされた性病(淋病)がもとで離婚。このとき治療にあたった医師がすべて男性で、女医となって同じ羞恥に苦しむ女性たちを救いたいと女医を志す
- 明治6年(1873年/22歳)
- 上京し、井上塾に入門、井上頼圀(よりくに)に師事
- 明治7年(1874年/23歳)
- 甲府の内藤満寿子の私塾の助教として赴く
- 明治8年(1875年/24歳)
- 東京女子師範学校(お茶の水女子大学の前身)の一期生として入学
- 明治12年(1879年/28歳)
- 東京女子師範学校を首席で卒業。下谷(現在の秋葉原)の私立医学校・好寿院に入学
- 明治15年(1882年/31歳)
- 好寿院を卒業。東京府に医術開業試験願を提出したが、かつての日本に女医は一人もおらず前例がないことにより、却下
- 明治17年(1884年/33歳)
- 医術開業試験前期試験を女性受験者4名と受験、吟子1人が合格
- 明治18年(1885年/34歳)
- 後期試験を受験し合格。5月、湯島に診療所「産婦人科荻野医院」を開業
- 明治19年(1886年/35歳)
- 海老名弾正からキリスト教の洗礼を受ける。キリスト教婦人矯風会にも参加、その風俗部長になる
- 明治23年(1890年/39歳)
- 13歳年下の同志社の学生で、敬虔なキリスト教徒だった志方之善(しかたゆきよし)と再婚
- 明治24年(1891年/40歳)
- 志方、理想郷イマヌエル開拓のために吟子を残し単身で北海道へ渡る
- 明治27年(1894年/43歳)
- 吟子、之善のいるイマヌエル(現北海道今金町)へ渡る
- 明治30年(1897年/46歳)
- 吟子、瀬棚(現北海道久遠郡せたな町)で診療所を開業する
- 明治38年(1905年/54歳)
- 志方、病を得て瀬棚で逝去(享年41歳)
- 明治41年(1908年/57歳)
- 帰京、本所区小梅町(現東京都墨田区)に医院を開業する
- 大正2年(1913年/62歳)
- 脳溢血により6月23日逝去
- 昭和59年(1984年)
- 日本女医会にて女性の地位向上や、市井の医療に著しい貢献をした女性医師を対象荻野吟子賞が設けられる